道教と忍者⑬

アイコンとしてのカエル①

         

      

 

フィクションにおいて呪術的な忍術を駆使する超常的存在として登場する忍
者は、史実的に描かれる忍者と比べると、評価されにくく、また考察の対象に
もなりにくい、ということは以前述べましたが、それと同じように「リアル志
向」の忍者・忍術研究では取り扱われないものとして、「忍者のアイコン」が
あると思われます。それは「カエル(特に蝦蟇)」です。
 フィクションの忍者といえば、よく「カエル」が一緒に描かれていますよね
?どうして忍者にはカエルがつきものとされているのでしょうか。
私は日本における忍者の源流には、中国道教世界観的な仙人がある、と主張し
ているのですが、忍者の「アイコン」あるいは「マスコット」である「カエル
」についても中国道教世界観にさかのぼれると考えます。
 先に述べたように、日本における忍者ものの確立は、江戸末期に流行した、
読本・合巻といった伝奇小説に始まっており、お馴染みとなった「蝦蟇の仙人
」「蝦蟇の妖術」=忍者とカエルの関係性の始まりもここにあると言えるでし
ょう。
 蝦蟇の仙人や蝦蟇の妖術は、中国においては、先行してあった道教的信仰を
土台に形成されたものなので、蝦蟇仙人もまた、道教的信仰の対象として機能
することを前提に物語化されたものと言えます。対して、日本においては、蝦
蟇の仙人や蝦蟇の妖術は、中国の道教的、神仙的世界観を背景・下地にしなが
らも、日中どちらの宗教的世界観とも直接つながらない、文芸の世界にしか存
在しないものです。
そのために、日本の文芸世界において蝦蟇の仙人や蝦蟇の妖術は、道教的世
界観の中で生まれた呪術を種として用いながらも、根本的な道教的宗教性から
は断絶した無関係な存在となり、自由に想像・描写できる対象として機能し続
けた、と考えられるでしょう。
また、そのために「妖術使い」ものの延長にある「忍者」においても、「カ
エル(蝦蟇)」は、「不老不死」を象徴する動物として仙人と関わる、といっ
た道教的含意とは無関係に、忍者に付随する「アイコン」または「マスコット
」的動物として選択され続けるのです。

 

中島慧

「花菫茶話」由来之「スミレ物語」

 

筆者前言

これから、当会の創立者であり現在の名誉会長である三潴正道麗澤大学名誉教授のエッセイ「花菫茶話」を、不定期に連載していきます。

 

今日は、なぜ「花菫」なのか、その由来となったエッセイをご紹介します。

(下の写真は残念ながら麗澤大学ではなく、東村山市にある全生園の桜を今年筆者が撮影したものです)

桜の道


スミレ物語                            三潴正道

 

 

毎年春サクラが咲き誇るその時期に、申し合わせたようにスミレが花を咲かせます。

麗澤大学はサクラの名所としても知られていますが、そのサクラ並木でも、毎年サクラの根元に沢山のスミレが咲きます。

 

しかし、行き交う人はともすればサクラにみとれ、スミレには気がつきません。時には踏みつけてしまうヒトさえいます。

 

その上、サクラは数日で散り始めます。花びらが地上に散り敷き、おかげでスミレの花はまったく目立たなくなります。それを目の当たりにし、スミレの気持ちを思い、毎年やりきれない気持ちで一杯でした。

 

ある年、一本の枯れたカエデの洞にスミレが芽吹きました。地上八尺はあるでしょう。実に誇らしげに花をつけていました。

「まあー珍しい!」行き交う人も目に留めます。もうサクラの花にもヒケを取りません。

 

三年過ぎたある日、強風が吹き、朽木はドウと倒れました。洞は木っ端微塵に砕け、スミレも地上に投げ出されて、八尺を超える根があらわになりました。

思うに必死に地上から養分を吸い上げていたのでしょう。しかし、所詮は他力本願だったのです。

 

翌年、朽ち木のあった根元に沢山のスミレが咲きました。あのスミレの子供たちです!

散り敷いたサクラの花びらが雨に消えても、スミレは逆にしっとりと色鮮やかに咲き誇り、人々の目を惹きつけました。

 

絢爛と咲き誇り、惜しげもなく散っていくサクラの花も素晴らしいのですが、地上のスミレのように地道に力強くしっかりと根を張る息の長い命もまた素晴らしい。

その上でそれぞれが自分なりの咲かせかたをできればなんと素晴らしいことでしょう!

すみれのイラスト(花)

 

道教と民間宗教、そして忍者と武侠

 

風神雷神


風雨陽光さだめない日々、いかがお過ごしでしょうか。

本ブログの連載、「道教と忍者」をお楽しみいただけていることと思います。

 

最近日本ではほぼ見かけませんが、半世紀ほど前までは、忍者小説、忍者映画、忍者ドラマ、忍者漫画などの名作が目白押しでした。

 

秘伝書を読んで修行してとか、巻物を咥えて九字を切ると不思議の術によって……とか、非常にファンタジックなものが多かったと思います(もちろん、白土三平の『カムイ伝』に代表されるリアリスティックな作品もあったことは忘れていません)。

 

忍者モノのファンタジックな描写を裏付けていたのが実は道教であるというのが、「道教と忍者」の趣旨であります。

 

忍者モノが廃れるにつれ、「道教」というものも日本人の視界から外れていき、「道教」に対して、「なにそれ?」という反応が返ってくることも多い昨今です。

 

台湾などにおいては言うに及ばず、中華人民共和国においても、道教はいまだ廃れていないように見受けられます。日本の神道同様に、仏教や呪術、シャーマニズムその他と混交習合した民間宗教になりはてている面は否定できませんが。

 

この面では最近、大谷亨『中国TikTok民俗学 スマホからはじまる珍神探訪』(NHK出版。2025年)を読みました。軽妙な語り口でヘンな神々のことが学問的裏付けとともにたくさん書いてあり、読みながらもう大興奮でした。

 

一方、中華圏でいまだに武侠モノ作品が元気であることは、上記のような精神性と関係があると思われ、こちらも好物であります。

 

ついに訳本が完結した、梦溪石(訳本でも姓が簡体字のままというのは不思議ですね)著・高階佑訳の『千秋』(日販アイ・ビー・エス株式会社、2026年)を読みました。武侠BLですが、南北朝時代の終焉と隋の建国をめぐる歴史と、剣豪たちのファンタジックな技がないまぜに語られており、作者はなみなみならぬ筆力の持ち主(もちろん訳者も)と感じました。

 

この物語でも、秘伝書(かつての忍者モノに度々登場したアレ)が重要な役割を果たしています。いったんは武功の全てを失った主人公が元来以上の力を取り戻すために、そしてなぜか愛を証す贈り物として。

 

最後の一行がおしゃれでした。

道教と忍者⑫

忍者ブームの変遷と忍術イロイロ④

   

   

 

「視覚的なインパクト」と言えば、やはり映画の他にマンガがあるでしょう。「
忍者ブーム」分析においても、一連の忍者マンガが対象に挙げられています。
 その際に良く代表的作家として肯定的に挙げられるのは、白土三平と横山光輝な
のですが、それは大正の「立川文庫」の流れをくむ忍者マンガと異なり「リアルで
重いテーマ」や「体術としての忍法」をメインに据えた作品として評価されるため
です。
 例えば、秋田孝宏は、それまでの猿飛佐助などの忍者を「何でもできるスーパー
ヒーロー」とし、これらが登場するマンガについても「魔法のような忍術合戦」と
する一方、白土作品に登場する忍術については「魔術ではなく、厳しい訓練によっ
て身に着けた体術としての忍法」とし、「何でもあり」な忍術ではなく、科学的な
忍術を使用する点を評価すべき点として挙げ、また、重いテーマといった人間性を
重視したストーリーも評価しています。

 このような傾向は映画でも見られます。例えば、秋本鉄次は忍者映画をスパイ映
画として捉えた上で分析しているのですが、秋山はマンガ分析と同様に、忍術では
なく忍者そのものの在り方、描かれ方に注目しているため、「荒唐無稽」な忍術を
多用する映画を子供向けと切り捨てる一方、ストーリー性を重視し一応は科学的に
解釈できる「リアル」な忍術を用いる映画を大人向けとして評価しています。
大正・昭和期における「忍者ブーム」分析においては、忍者は大きく言うと時代
を反映する存在として評価されます。これは、忍者の史実的側面を重視する評価の
一つでしょう。このような評価の方向は、先で挙げた『万川集海』の作者が史実の
忍者(「忍び」)の地位の底上げを計るために「正心」等の精神性を特に強調した
り、忍者を自称する人々、例えば藤田西湖等が忍術の実践性を強くアピールしたの
と同様の方向です。つまり、彼らは「忍者ブーム」を解釈するにあたって、フィク
ションの中の存在である忍者が持っている様々なイメージから、忍術(=呪術的技
術)の使用者という従来のイメージが持つ一側面をできる限り排し、忍者とは「忍
び」という職業人である、というイメージを積極的に受け取り、評価しようとした
のです。
 しかし、本当に「忍者ブーム」発生の本質とは、社会背景の忍者への投影である
、と断定して良いのでしょうか。何故なら、忍者という単語からイメージされるの
は、現実の世界に実在したとされる「忍び」達では無く、人間離れした忍術を使用
する、主にファンタジー的世界観を持つ作品群で活躍するキャラクター達の姿だか
らなのです。

 

中島慧


主な参考文献
『忍者と忍術―闇に潜んだ異能者の虚と実』歴史群像シリーズ71、学研、2003年。

道教と忍者⑪

忍者ブームの変遷と忍術イロイロ③

 

    

 

現在、忍者を主人公にした作品群は、歴史・時代小説の主要な分野の一つとなっ
ていますが、それは昭和30年代後半から40年代後半にかけて、柴田錬三郎『赤い影
法師』、司馬遼太郎『梟の城』、村山知義『忍びの者』、山田風太郎『甲賀忍法帖
』など、忍者を主人公にしたエンタメ時代小説が出版されたことによって引き起こ
された特異なブームである、とされています。こちらは昭和の「忍者ブーム」です

 「忍者ブーム」は大正・昭和に2回大きなブームが起こったとされていますが、そ
れについて高山宏は「原郷喪失が忍者を生んだ」と指摘し、「戦前・戦後の様々な
メディアに繰り返し立ち現れる忍者の本質とはマニエリスム」と断言します。「メ
ディアが自らの間的なありようを忍者・忍術にそっくり仮託したとしか言いようの
ない興味津々の二つのエポックが存在する」としてそれが大正・昭和の忍者ブーム
の時代であった、と結論しています。
 高山は映画についても言及しており、そこでも忍者ものと時代との関連性につい
て指摘し「忍者もののメディア的本質はひたすらに「驚異」させるという一点にあ
り、その点でもメディアそのものの大衆刺激の欲望と、新手のびっくり技やどんで
ん返しに淫せざるをえない忍者の文芸ジャンルは全くびっくりするほど同じ構造を
持つ。つまりは、相手よりも一寸先に出る新奇な術を持たねば闇に葬り去られるし
かない忍者そのものである構造だが、時代がどこかで行き詰まりを欝々と感じて突
破と驚異とを夢見るとき、天啓のように闇から忍びが出現する」のだとし、このよ
うな点が「忍者を主題とする各メディアを一つに貫く原理」である、と断言してい
ます。
 このように、忍者ブーム分析では、忍者ブームの背景として、メディアを重要視
し、忍者とメディアとの間に共通性を見出していますが、メディアと忍者との関連
性について言及される際に、焦点があたっている、関心が向けられている点とは、
大きくいってしまえば、忍者本体よりも「忍術」でしょう。
 このような点から見ても、やはりフィクションにおける忍者・忍術の本質とは「
視覚的なインパクト」にある、と言えるのではないでしょうか。

 

中島慧


主な参考文献
『KAWADE夢ムック文藝別冊山田風太郎綺想の歴史ロマン作家』河出書房新社
、2001年。
高山宏「メディアの中の忍者学 六方手裏剣に仮託されたマニエリスム時代のトリ
ックスター」『忍者と忍術―闇に潜んだ異能者の虚と実』歴史群像シリーズ71、学
研、2003年、158~165。

道教と忍者⑩

忍者ブームの変遷と忍術イロイロ②

         

フィクションの忍者のみならず、忍者や忍術と言われてイメージされるのは
大きく分けて2通りでしょう。1つは呪術的な忍術を駆使する超常的存在とし
ての忍者、もう1つは史実的に描かれる忍者です。
フィクションにおいて忍者は小説・漫画・映画・演劇等様々なジャンルに登
場しますが、往々にして前者のイメージを持つ忍者は「荒唐無稽」「子供向け
」として評価されず、一方で後者のイメージを持つ忍者ものは「重厚なテーマ
」「大人の鑑賞に耐え得る」等の評価を受けます。これは従来の忍者・忍術研
究において史実的な戦闘者という忍者像に対する考察が重視されることで、呪
術的(宗教的)な超常的存在としての忍者のイメージが軽視、排除されてきた
からでしょう。また、文学研究という面においても忍者・忍術に対しては、戦
闘者としての忍者の内面、精神性に「納得」したり、この戦闘者という性質に
、その時代ごとの読者の共鳴が呼び込めるという点に注目が置かれるため、後
者のイメージは高く評価されるのに対して、このような評価基準に外れる前者
のイメージは、それの持ち込まれる媒体が子供向けの映画や少年漫画といった
ものが多かったというのも相まって評価や考察の対象とされてこなかったので
す。
忍者ものは現在に至るまで、小説や演劇において一つのジャンルを築いてお
り、幾度かの「忍者ブーム」と呼ばれるブームに対する分析も行なわれていま
す。まず、「忍者ブーム」とは何かということですが、マス・メディアと絡め
たいくつかの考察があります。
例えば、尾崎秀樹は『大衆文学論』の中で、この「忍者ブーム」についてマ
ス・メディアと絡めて「だいたい忍術ブームは、マス・メディアの更新期に起
こる傾向がある。カブキ演出に新しい展開の見られた文化・文政期に一つのメ
ルクマールがあり、大正期を中心とする昭和にかけての一時期に、立川文庫か
ら大衆文学への忍術小説・映画の興隆があった。」と考察しています。現在言
われる「忍者ブーム」とは主に大正~昭和にかけてのものであるようです。忍
者ブームも、忍者イメージの変遷にメディアの変化が関係しているのと同様に
、メディアの文字から映像への変化と共に出現しているのです。
 また、忍者とマス・メディアとの関連性については、「忍者ブーム」はメ
ディアの擬態であるという高山宏の考察もあります。

 

中島慧
主な参考文献
尾崎秀樹『大衆文学論』講談社、2001年。
高山宏「メディアの中の忍者学 六方手裏剣に仮託されたマニエリスム時代の
トリックスター」『忍者と忍術―闇に潜んだ異能者の虚と実』歴史群像シリー
ズ71、学研、2003年、158~165p。

道教と忍者⑨

忍者ブームの変遷と忍術イロイロ① 

前回までで3つのキャラクターを「盗むという行為」「妖術という技術」

「正義という精神性」という焦点に合わせて紹介しました。
石川五右衛門の物語には庶民の願望が反映されていると考えられますが、こ
のキャラクターに付け加えられた忍者という要素は、盗みを行うための技術と
して忍術を用いるために必要だから付加されたのであって、忍者=庶民の味方
という発想によるものではありませんでした。忍者=庶民の味方というイメー
ジの忍者像の確立は、「立川文庫」によって猿飛佐助という新しいタイプの忍
者が創造されて以降だとされています。よって、石川五右衛門の物語の中心に
あるのはストーリー性だ、と言えるでしょう。これは、先に挙げたように「忍
者ブーム」の背景に時代性や社会性を見て、忍者はこれらの反映だと評価する
のと同様です。よって、石川五右衛門を主役に据えた物語は現在でも現代的な
解釈が当てはめられるため機能すると言えるでしょう。
また、フィクションに登場する創作上の忍者の代表は猿飛佐助であり、この
、猿飛佐助において完成した忍者像には、一連の「ジライヤ」ものから生み出
されたイメージが大きな影響を与えていますが、肝心の「ジライヤ」ものに対
する一般的評価は低いです。それは、「ジライヤ」が非現実的な忍術(妖術的
な)に大きく依存するキャラクターであるためでしょう。主題である盗むとい
う行為に反権力を視ることで社会性を反映する石川五右衛門や、正義という内
面の強調によってキャラクターを保つ猿飛佐助とは異なり、「呪術的」な忍者
のイメージを遠ざけようとする傾向があると、そこから「ジライヤ」は「低俗
」「荒唐無稽」「子供向け」なものであるとして弾かれざるを得ないのです。
西村安弘が、「ジライヤ」を主役に据えた作品は時代が下ると消えて行った、
と分析していますが、昭和の忍者ブームは「妖術的な」忍術を「ネガティブな
」ものとして排除する傾向がありました。西村も昭和三〇年代の第二次忍者ブ
ームの到来について、「一言でまとめてしまえば、この第二次忍者映画ブーム
の基礎には、唯物論的忍者観の出現があった。」と指摘しています。
大まかに忍者イメージの変遷についていえば、総合的に見て忍者は、盗賊か
ら正義のヒーローへと変化しています。また、その過程で、幻術・妖術は忍術
に統合された、と考えられるでしょう。それには忍者が登場するメディアの(
絵草子・草双紙・読本→小説・映画→漫画・ドラマのような)文章から映像と
いった変化も関係していると思われます。

 

中島慧

主な参考文献
西村安弘「消えた児雷也」『芸術世界』14、2008年、1∼6p。