花菫茶話  第六話

「花菫茶話」、今日も幼き日の回想です。

玉子焼き用フライパンのイラスト

 

花菫茶話  第六話「ブタもおだてりゃ木に登る」 

                   三潴正道               

 

 生来のお調子者だったから、おだてに乗りやすい。しかし、それが思わぬ好結果を生むこともある。


 祖母は卵焼きが大好きだった。毎朝必ず食べる。母にとってはそれが悩みの種。炊飯器もないころ、朝の台所は家族7人分の食事の用意に忙しい。


 ある日、母が卵焼きを作っている姿を見た私は、「僕もやってみたい」、とせがんだ。まだ8歳くらいだった。


 母は「しめた!」と思ったに違いない。早速教えて私に作らせ、祖母に言った。
「これは正道が焼いたんですよ!」


 孫が焼いた卵焼きだ。下手糞でも褒めるに決まっている。
「おやまあ、柔らくておいしいこと。よくできているねえ」


 ブタもおだてりゃ木に登る。私は有頂天になって喜んだ。
「明日から、おばあさまの卵焼きは僕が作る!」
 母も有頂天になって喜んだ。


  すっかり料理に興味を持った私は、包丁も使ってみたくなり、お味噌汁に入れる大根を千切りにしている母を見て、「僕がやる!」とせがんだ。


 二匹目の泥鰌にほくそ笑んだ母は、また「しめた!」とばかりにわたしの包丁遣いをほめた。それからは野菜を刻むことにのめり込んだ。


 年の暮れ、お節料理を作る頃の台所は大忙し。黒豆を煮、田作りを作り、きんとんを作る。


 我が家の正月は、7人家族に加え、三が日は年賀の客が絶えない。みんなが上がりこむから、おもてなしが大変で、料理の数や量は馬鹿にならない。


 そこで一番の悩みの種がなますづくり。大きな三浦大根一本と、細長くかたい、60センチはあろうというニンジンを千切りにしなければならない。いつしかその役目は私に割り振られた。今でも、年の暮れといえば、大根と人参を思い出す。


 小学5年生の時、家庭科の授業が始まった。小太りの優しい馬場先生が担当だった。先生の下ごしらえを偶然目にした私がしゃしゃり出ると、先生は大喜びでたいそう褒めてくれ、私を助手に任命した。それからは家庭科が一番好きな科目になった。


 スウェーデン刺繍やフランス刺繍も習った。家庭科好きの延長でこれにものめり込んだ。


 「母さんが夜なべをして、手袋編んでくれた」という歌がはやったころ、「手袋を編もう」と思い立って、母に編み道具を買ってくれ、とせがんだ。しかし、どういうわけか、これはいい顔をされず、実現しなかった。今も毛糸編みをしている人を見ると、あの時覚えていれば、と残念になる。


 のめり込みやすく、凝り性の私に、母は歯止めをかけたかったのかもしれない。

久しぶりに本の話を

うつ伏せで本を読む人のイラスト(女性)

ずっと書こうと思ってすっかり温めてしまっていました。

 

最近、角川ソフィア文庫の「ビギナーズクラシックス」シリーズに、割に新しい中国文学が入っています。

 

特に私としては、『紅楼夢』がはいっているのが嬉しいです。『紅楼夢』はご存知の通りむちゃくちゃ長い話ですし、前世紀には全訳といえば幸田露伴というわけで、大変読みづらかったのです。

 

ソフィア文庫のは、たんなる抄訳ではなく、船越達志によって重要場面が選ばれていて、詳しい説明・考察がついているので、大変読みやすい。

 

アマゾンで見たら、『紅楼夢』『水滸伝』『西遊記』とシリーズで出ているんですね。『金瓶梅』も出るかな? 期待です。

2026年春の総会・大会が開かれました

 

大会発表

5月某日、本会の総会と大会が開かれました。

 

総会では、新しい理事が承認され、新体制が発足しました。がんばれー。

 

さて、午後は恒例のワークショップと研究発表です。

 

ワークショップでは、本会が展開しようとしている論説体中国語eラーニングシステムをどのように稼働させていくかについての実践。採点・添削の訓練でした。

 

研究発表は、「中国古典詩文の読みかた」でした。

 

私たちは普段現代中国語を日本語に訳しているわけですが、現代中国語の中にも多くの、いわゆる漢文脈が現れます。こういうところの訳し方はとても難しい!

 

発表者に、「その訳し方については、たぶん一生悩むと思います」とまとめられて、「そうですよねー」と、ほろ苦い気持ちをかみしめました。

花菫茶話 第五話

今日は、おいしいお餅のお話二題です。


花菫茶話  第五話「お餅の縁」


 高校生のある日、何の用事だったか、品川へ行った。


用事を済ませ、帰ろうとしたが、小春日和、正月前なのにぽかぽかと暖かい。
電車に乗るのが惜しくなった。品川から世田谷の経堂まで、直線距離なら大したこともない。ままよと、足の向くままテクテク歩き出した。

 町は師走の賑わい、商店街も活気に満ちている。路地を通ればあちこちに山茶花の花。

  幼稚園の前を通りかかった。子供たちのはしゃぐ声にお母さんたちの声が混じる。見れば、餅つきの真っ最中で、杵を手にしているのはお母さんたち。だが、こわごわとへっぴり腰で、こねる人との呼吸も合わない。

 

  「早く搗かないと餅米が冷めちゃうわよ」
  「そんなこと言ったって、重たいんだから」 
  危なっかしく、見るに見かねた。

 

  「すみません、通りがかりのものですが、私が搗きましょうか」
  「えっ、ほんと?助かるわ」、「是非お願いします!」

 

 土木工事でツルハシを握った技が役に立った。餅が搗きあがり、その場で丸め餅もご馳走になった。幼稚園を出るとき、子供たちの「ありがとう」の可愛い声が背中に飛んできた。

 

 数日後、新宿から小田急線に乗って家に帰る途中のこと。車内は結構混んでいて、運転席の真後ろ当たりのスペースでも肩が触れそうだ。

 

 横におばあさんが一人立っていた。重そうな風呂敷包みを抱えてよろよろしている。
「東京はほんとに人が多いねえ。忙しいんだろうね。ご苦労さま」と東北弁丸出しで周りに声をかけるが、誰も無言で横を向いている。

 

  おばあさんは気まずそうに顔を伏せた。

 

 「どこからいらしたんですか」
と尋ねると、おばあさんは、はっと顔を上げ、うれしそうに言った。
「青森から来たんですよ」

 

聞けば東京は初めてとのこと。青森の電車では、知らない人同士も挨拶するのよ、とも。

 

 別れ際、おばあさんが風呂敷を差し出した。青森から持ってきたお餅だ、どうしても受け取れ、という。いくら固辞しても許してもらえなかった。

 

  別れ際に何度も腰を折り曲げるおばあさんの姿を、ずっしりと重いお餅の包みを抱えながらホームでしばし見送っていた。

「花菫茶話」第四話「茶碗の一杯」

「花菫茶話」今回も、若き日の回想です。

先生のお父上のことを、私たちは「オヤジ先生」と呼んでいました。とてもダンディーで、すてきな方でした。

 

綺麗なお茶碗のイラスト

「花菫茶話」第四話「茶碗の一杯」 三潴正道

 

我が家は七人家族、四人兄弟だった。大学の教師とはいえ、父の給与はたかが知れたもの。夏休みには予備校の教師をし、日頃は授業から帰ると、汲み取った自宅の下肥を自転車で運び、近所に借りた猫の額ほどの土地を耕して家族の野菜を作っていた。


  そんな事情から、私も高校に入るとバイトを始めた。
  新聞配達はしんどかった。午前三時には起きて近くの駅から配達店に新聞を運ぶ。広告を挟む作業を二時間続け、その後、自転車に積んで200部ほど配る。真冬は実に寒かったし四階建てのアパートの階段は文字通り筋トレだった。配り終わると帰宅し、朝食を掻き込み、電車で高校へ行く。


 配達ルートに一人暮らしのおばあさんがいた。新聞は玄関の中に、と言う。玄関を開けると、毎日、正座したおばあさんがお茶とお菓子をお盆にのせて待っていた。
「ご苦労様ね。さあさ、ちょっと休んでいきなさいな」


 話によれば、子供たちは独立し、ご主人にも先立たれ、毎日私に会うのが唯一の楽しみ、という。気持ちは急くものの、三分間、と心に決めてご馳走になった。


 電柱の付け替え工事もなかなかだった。東京オリンピックの頃は、木の電柱をコンクリートに変える日雇いが多かった。夜中の2:00から朝の5:00までが勝負だ。しかし、16歳の私がツルハシでアスファルトを剝がそうとしても、カチンと跳ね返されるだけ。


  そんな時、青森から出稼ぎに来ていたおじさんが声をかけた。
「坊や、そんなに詰めたら体を壊すぞ。こっちへ来て一杯やんな」。
そういうと茶碗酒を勧めてくれた。焚火にあたり、一杯やりながら(未成年!?)、いろいろな話を聞かせてくれる。人情がいっぱい詰まった、素朴な話にいつしか引き込まれ、心が和んだ。人は見かけではない、そう思った。


 一杯のお茶に一杯のお酒、味は違ったが、若い私の体と心に同じ何かがしみ込んだ。

花菫茶話第三話「ミミズの煎じ薬」

第三話は、百歳をこえる長寿でいらっしゃった母上に関するお話です。

 

煎じ薬

花菫茶話  第三話「ミミズの煎じ薬」   三潴正道


  スマホを見ていたら、偶然、「ミミズ一風散」という文字が目に留まった。解熱剤に使うという。それで、はた、と思い出した。子供のころ、よく母に「正道、ミミズとってきて!」と言われたことだ。あれは多分、「病気の問屋さん」とあだ名されていた病弱な弟の熱さましだったのだろう。 


  手の付けられない腕白坊主で、さんざん母を心配させた私は、ミミズとりに限らず、よく母の手伝いをさせられた、というより、実はそれが何よりうれしかった。


  縁側で陽の光を浴びながら一緒に土筆ん坊の袴を取ったこと、蕗の筋を取ったこと、手に棘を刺しながら、刈り込んだ山椒の枝から葉を採ったこと、春になるたびよく思い出す。母はそのたびにいつもこう言った。


  「正道が助けてくれるから、本当にありがたいわ」
父に叱られっぱなしだった私は、その言葉にどれだけ慰められたことだろう。


  認知症がひどくなり、老人ホームに入ったころ、俗にいう「まだらボケ」だった母が突然、
  「正道、今、何をしているの?」
と聞いた。おや、俺がわかるのか。と思いつつ、  「大学で先生をしているよ」
と言った。すると、母は大きくのけぞり、
  「正道が大学の先生!へー、驚いた、驚いた」と手を打ち、ガバッと机に突っ伏した。


それから急に立ち上がると、私の手を引いて共用スペースに行き、
  「皆さん、この子が、この子が大学の先生になったんですって!」と言って回った。


  「こんなにも心配してくれていたのか……」 
   ホームに暇を告げ、玄関を出てバス停に向かった。


 振り返ると、認知症のはずの母が、二階の窓で背伸びをし、大手を広げ振っている。そう、何度も何度も……。


  そんな母の姿が次第に滲んで霞んで見えた。

花菫茶話第二話「良寛さん」

http://www.ryokan-kinenkan.jp/news/index.p2.html

 

出雲崎にある良寛記念館のHPには、良寛さんのすてきなイラストがたくさん載っています。

 

今日の花菫茶話は、「良寛さんになりたい」と思った、少年時代の話です。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

花菫茶話第二話「良寛さん」

 

「あら、和尚さん、こんなところにうずくまって、なにしているの?」


「シーっ、声を出しなさんな、子供たちに見つかっちゃうじゃないか」

 

「えっ、かくれんぼしているんですか」


「そうじゃ、だからほっといておくれ」


「あきれた、日が暮れて子供たちはもうみんな家に帰りましたよ」


「……」


 とまあ、こんなやり取りだっただろうか。小学生の頃読んだ『良寛さん』の一節である。


その頃は本の虫で、散々読み散らかしたのだが、いまだにこの一節を呼んだ時の感激が忘れられない。


「大人になったら、良寛さんのようになりたい!」
心からそう思った。なぜ? さあ、それはよくわからない。


 高校一年生の時にも似たような感動を覚えた。
  サン・テグジュペリの「星の王子様」を呼んだ時だ。


「ゾウを飲み込んだウワバミが、大人には帽子にしか見えない」
そう、冒頭の一節である。大きなショックを受けた。そのとき心に決めた。「ゾウを飲み込んだウワバミに見える大人になろう」、と。


 裸の王様とわかっていても見て見ぬふりをする大人、裸が見えなくなってしまっている大人は多い。いや、立派な服を着ている王様が、実は裸同然だということに気づかない大人が多いのかもしれない。


 帽子に見えないように73年生きてきた。生きづらい、でも幸せな人生だった。