花菫茶話 第五話

今日は、おいしいお餅のお話二題です。


花菫茶話  第五話「お餅の縁」


 高校生のある日、何の用事だったか、品川へ行った。


用事を済ませ、帰ろうとしたが、小春日和、正月前なのにぽかぽかと暖かい。
電車に乗るのが惜しくなった。品川から世田谷の経堂まで、直線距離なら大したこともない。ままよと、足の向くままテクテク歩き出した。

 町は師走の賑わい、商店街も活気に満ちている。路地を通ればあちこちに山茶花の花。

  幼稚園の前を通りかかった。子供たちのはしゃぐ声にお母さんたちの声が混じる。見れば、餅つきの真っ最中で、杵を手にしているのはお母さんたち。だが、こわごわとへっぴり腰で、こねる人との呼吸も合わない。

 

  「早く搗かないと餅米が冷めちゃうわよ」
  「そんなこと言ったって、重たいんだから」 
  危なっかしく、見るに見かねた。

 

  「すみません、通りがかりのものですが、私が搗きましょうか」
  「えっ、ほんと?助かるわ」、「是非お願いします!」

 

 土木工事でツルハシを握った技が役に立った。餅が搗きあがり、その場で丸め餅もご馳走になった。幼稚園を出るとき、子供たちの「ありがとう」の可愛い声が背中に飛んできた。

 

 数日後、新宿から小田急線に乗って家に帰る途中のこと。車内は結構混んでいて、運転席の真後ろ当たりのスペースでも肩が触れそうだ。

 

 横におばあさんが一人立っていた。重そうな風呂敷包みを抱えてよろよろしている。
「東京はほんとに人が多いねえ。忙しいんだろうね。ご苦労さま」と東北弁丸出しで周りに声をかけるが、誰も無言で横を向いている。

 

  おばあさんは気まずそうに顔を伏せた。

 

 「どこからいらしたんですか」
と尋ねると、おばあさんは、はっと顔を上げ、うれしそうに言った。
「青森から来たんですよ」

 

聞けば東京は初めてとのこと。青森の電車では、知らない人同士も挨拶するのよ、とも。

 

 別れ際、おばあさんが風呂敷を差し出した。青森から持ってきたお餅だ、どうしても受け取れ、という。いくら固辞しても許してもらえなかった。

 

  別れ際に何度も腰を折り曲げるおばあさんの姿を、ずっしりと重いお餅の包みを抱えながらホームでしばし見送っていた。

「花菫茶話」第四話「茶碗の一杯」

「花菫茶話」今回も、若き日の回想です。

先生のお父上のことを、私たちは「オヤジ先生」と呼んでいました。とてもダンディーで、すてきな方でした。

 

綺麗なお茶碗のイラスト

「花菫茶話」第四話「茶碗の一杯」 三潴正道

 

我が家は七人家族、四人兄弟だった。大学の教師とはいえ、父の給与はたかが知れたもの。夏休みには予備校の教師をし、日頃は授業から帰ると、汲み取った自宅の下肥を自転車で運び、近所に借りた猫の額ほどの土地を耕して家族の野菜を作っていた。


  そんな事情から、私も高校に入るとバイトを始めた。
  新聞配達はしんどかった。午前三時には起きて近くの駅から配達店に新聞を運ぶ。広告を挟む作業を二時間続け、その後、自転車に積んで200部ほど配る。真冬は実に寒かったし四階建てのアパートの階段は文字通り筋トレだった。配り終わると帰宅し、朝食を掻き込み、電車で高校へ行く。


 配達ルートに一人暮らしのおばあさんがいた。新聞は玄関の中に、と言う。玄関を開けると、毎日、正座したおばあさんがお茶とお菓子をお盆にのせて待っていた。
「ご苦労様ね。さあさ、ちょっと休んでいきなさいな」


 話によれば、子供たちは独立し、ご主人にも先立たれ、毎日私に会うのが唯一の楽しみ、という。気持ちは急くものの、三分間、と心に決めてご馳走になった。


 電柱の付け替え工事もなかなかだった。東京オリンピックの頃は、木の電柱をコンクリートに変える日雇いが多かった。夜中の2:00から朝の5:00までが勝負だ。しかし、16歳の私がツルハシでアスファルトを剝がそうとしても、カチンと跳ね返されるだけ。


  そんな時、青森から出稼ぎに来ていたおじさんが声をかけた。
「坊や、そんなに詰めたら体を壊すぞ。こっちへ来て一杯やんな」。
そういうと茶碗酒を勧めてくれた。焚火にあたり、一杯やりながら(未成年!?)、いろいろな話を聞かせてくれる。人情がいっぱい詰まった、素朴な話にいつしか引き込まれ、心が和んだ。人は見かけではない、そう思った。


 一杯のお茶に一杯のお酒、味は違ったが、若い私の体と心に同じ何かがしみ込んだ。

花菫茶話第三話「ミミズの煎じ薬」

第三話は、百歳をこえる長寿でいらっしゃった母上に関するお話です。

 

煎じ薬

花菫茶話  第三話「ミミズの煎じ薬」   三潴正道


  スマホを見ていたら、偶然、「ミミズ一風散」という文字が目に留まった。解熱剤に使うという。それで、はた、と思い出した。子供のころ、よく母に「正道、ミミズとってきて!」と言われたことだ。あれは多分、「病気の問屋さん」とあだ名されていた病弱な弟の熱さましだったのだろう。 


  手の付けられない腕白坊主で、さんざん母を心配させた私は、ミミズとりに限らず、よく母の手伝いをさせられた、というより、実はそれが何よりうれしかった。


  縁側で陽の光を浴びながら一緒に土筆ん坊の袴を取ったこと、蕗の筋を取ったこと、手に棘を刺しながら、刈り込んだ山椒の枝から葉を採ったこと、春になるたびよく思い出す。母はそのたびにいつもこう言った。


  「正道が助けてくれるから、本当にありがたいわ」
父に叱られっぱなしだった私は、その言葉にどれだけ慰められたことだろう。


  認知症がひどくなり、老人ホームに入ったころ、俗にいう「まだらボケ」だった母が突然、
  「正道、今、何をしているの?」
と聞いた。おや、俺がわかるのか。と思いつつ、  「大学で先生をしているよ」
と言った。すると、母は大きくのけぞり、
  「正道が大学の先生!へー、驚いた、驚いた」と手を打ち、ガバッと机に突っ伏した。


それから急に立ち上がると、私の手を引いて共用スペースに行き、
  「皆さん、この子が、この子が大学の先生になったんですって!」と言って回った。


  「こんなにも心配してくれていたのか……」 
   ホームに暇を告げ、玄関を出てバス停に向かった。


 振り返ると、認知症のはずの母が、二階の窓で背伸びをし、大手を広げ振っている。そう、何度も何度も……。


  そんな母の姿が次第に滲んで霞んで見えた。

花菫茶話第二話「良寛さん」

http://www.ryokan-kinenkan.jp/news/index.p2.html

 

出雲崎にある良寛記念館のHPには、良寛さんのすてきなイラストがたくさん載っています。

 

今日の花菫茶話は、「良寛さんになりたい」と思った、少年時代の話です。

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花菫茶話第二話「良寛さん」

 

「あら、和尚さん、こんなところにうずくまって、なにしているの?」


「シーっ、声を出しなさんな、子供たちに見つかっちゃうじゃないか」

 

「えっ、かくれんぼしているんですか」


「そうじゃ、だからほっといておくれ」


「あきれた、日が暮れて子供たちはもうみんな家に帰りましたよ」


「……」


 とまあ、こんなやり取りだっただろうか。小学生の頃読んだ『良寛さん』の一節である。


その頃は本の虫で、散々読み散らかしたのだが、いまだにこの一節を呼んだ時の感激が忘れられない。


「大人になったら、良寛さんのようになりたい!」
心からそう思った。なぜ? さあ、それはよくわからない。


 高校一年生の時にも似たような感動を覚えた。
  サン・テグジュペリの「星の王子様」を呼んだ時だ。


「ゾウを飲み込んだウワバミが、大人には帽子にしか見えない」
そう、冒頭の一節である。大きなショックを受けた。そのとき心に決めた。「ゾウを飲み込んだウワバミに見える大人になろう」、と。


 裸の王様とわかっていても見て見ぬふりをする大人、裸が見えなくなってしまっている大人は多い。いや、立派な服を着ている王様が、実は裸同然だということに気づかない大人が多いのかもしれない。


 帽子に見えないように73年生きてきた。生きづらい、でも幸せな人生だった。

花菫茶話  第一話「一本の小菊」三潴正道

五月待つ

 祖母は私が高校生の時に亡くなった。20歳代で日清戦争、30歳代で日露戦争、40歳代で第一次世界大戦、60~70歳代で第二次大戦、その間に、息子一人と夫を病気で失った。


  終戦後は、麻布にあった家屋敷も売り払い、平屋の一室にこもり、7人家族で共に老後を過ごした。ラジオの前でうつらうつらしながら浪曲を聞くのが好きだった。


 ある春の日、祖母が小菊の枝を一本、手に持って帰って来た。聞けば、アスファルトの路上で息絶え絶えだった、ということである。勿論、まだ花はない。いや、根もないのである。


 「おばあ様、それどうするの」、小学生だった私が不思議そうに尋ねると、
  「ここに挿しておくんだよ」と、大きな庭石の背後にその枝を挿し込んだ。


 それから数カ月、私は小菊のことをすっかり忘れていた。


 ある秋の日、明るい日差しが庭を照らしていた。ふと見ると、黄色い花をたくさんつけた小菊が、ふさふさと懸崖のように庭石にもたれかかっている。 


 「あれ、こんなところに小菊があったっけ」


 私の頭に数カ月前のことが蘇った。まさか、あの小菊が……。


 挿し木に夢中になったのはそれからである。様々な木を試してみた。挿し木では着くはずのないサクラが根付いたこともあった。しかし、いずれの場合も祖母が拾ってきた小菊が咲いた時ほどの感動は味わえなかった。


 祖母が逝ったその秋も、小菊は見事に花を咲かせていた。
  赤トンボが一匹、羽を休めていた。

道教と忍者⑯

アイコンとしてのカエル④

         

 

 中国と日本における蛙・蝦蟇に対するイメージ、認識の差というものの大き
さが良く分かるものとして「青蛙神」があるでしょう。
中国おいて青蛙神が扱われたものとして、蒲松齢 『聊斎志異』があり、こ
の中で青蛙神は粗末に扱うと祟るが、主に財をもたらす神として概ね肯定的に
描かれています。これに対して、日本では中国の伝承である青蛙神を扱いなが
らもこれとは異なる結末をもたらす作品があります。
日本では、岡本綺堂が『青蛙堂奇談』と舞台『青蛙神』を書いているのです
が、綺堂の描く青蛙神は不吉をもたらす神であり、青蛙神の話は怪談です。蒲
松齢、岡本綺堂は、共に奇談として青蛙神を扱うのですが、蒲松齢は『聊斎志
異』で御馴染みの異類婚類譚をベースにした上、最終的に青蛙神は現世利益を
もたらすという、実在する青蛙信仰を肯定する結末なのに対して、綺堂の青蛙
神は青蛙神の置物で、この置物が不気味な存在として機能します。綺堂版青蛙
神では、怪異の発生は青蛙神に帰結するため、青蛙神が不吉の象徴になります

 
両者の青蛙神の扱い、印象が異なるのは、蒲松齢の小説は青蛙神の信仰が前
提にあり、「青蛙神=蛙・蝦蟇にまつわる不吉な印象が中国には無い」のに対
し、岡本綺堂は戯作を引き継ぐ作家であり、日本での蛙・蝦蟇の印象は、前提
とされるような日本独自の信仰が薄いため、読本、合巻の描写から蛙・蝦蟇へ
の不吉な印象が定着しているので、中国の青蛙神という財をもたらす神をモチ
ーフにしていても「蛙・蝦蟇=不吉」という前提が前面に出るためです。
日本において蝦蟇(蛙)は小説・漫画・映画・演劇等様々なジャンルを通し
て「不吉」なイメージを獲得していきました。そしてそこには「蝦蟇の妖術使
いもの」という大きく流行した特定のジャンルが存在しています。蝦蟇はその
「蝦蟇の妖術使いもの」が「忍者もの」へと変遷していく中で、「邪悪」とか
「不吉」などといった怪しいイメージをもつ動物として超常的に描かれ、また
、「忍者」の超常性を表すマスコットとして用いられていくのでした。

 

中島慧

道教と忍者⑮

アイコンとしてのカエル③

           
中国における蝦蟇・蛙について


 蝦蟇の妖術の大元である中国の神話・伝承において、蝦蟇(蟾蜍)・蛙は、
月・不死の象徴・薬・富に結び付く存在です。
 蝦蟇が伝説化された一つにはその薬効があると思われます。それは「蟾酥」
と言い、『本草綱目』『宋書』等に記載されています。また、『神農本草経』
では「蝦蟇」をそのまま薬として使用する使用法が記載されており、腫物に効
くとされています。なお、『本草綱目』には千年生きた蝦蟇を食べると仙人に
なれる、という説も載っています。
 蟾酥は、ヒキガエル科のヒキガエル、シナヒキガエルまたはヘリグロヒキガ
エルの耳後腺および皮膚腺の分泌物です。強心作用、局所知覚麻酔作用、呼吸
促進作用、血管収縮作用、発汗防止作用、切り傷や擦り傷の止血、幻覚作用な
どがあるとされており、蝦蟇には見かけから想像された空想上の効果(思い込
みのような効果)のみでなく、蝦実際の成分による薬理作用があるようです。
 このように蝦蟇は、実際に薬効を持った生物ではありますが、それ以上に蝦
蟇を神秘的な生物として扱うのは、「月=不老不死=不死の薬」と蝦蟇を結び
付ける伝説があるためでしょう。
 それは『淮南子』巻六覽冥訓に「羿請二不死之藥於西王母一、姮娥竊以奔レ
月」 とある、嫦娥奔月の物語です。「嫦娥奔月」は不死となった嫦娥は蟾蜍
になって月に住む、また、月に住む蟾蜍は三本足の蟾蜍であるとされ、青蛙神
という蟾蜍の霊獣、または神であるとも言われています」。さらに青蛙神は、
漢江から長江、杭州で信仰される天災を予知する、縁起のいい福の神、金運を
もたらす神であるとも言われています。ちなみに、中国全土に生息し体色の個
体差の大きさを特徴とするチュウカヒキガエルを神聖化したものが青蛙神であ

る、と考えられています。

 

中島慧


主な参考文献
上海科学技術出版社、小学館編『中薬大辞典』第三巻、小学館、一九八五年。